今日もやり過ごそうくらいが丁度いい。
私はしんどいときいつも
「よし、今日も頑張ろう。」
と自分を奮い立たせてきた。
でも、そんな気持ちはあっても、大概は負のループにしばらくハマってしまう。言うたびに自分に頑張らないといけないという責任を課してしまい、心のHPが消耗されるだけなのだった。
そんなとき、職場のロッカーがお隣さんの女性が言ったのがこれ。
「はー、帰りたい。今日も1日やり過ごそう。」
実に絶妙な言葉だと思った。
こう言いつつも、どうせある程度は頑張るのだ。ある程度頑張るがやり過ぎず、ミスが起きないくらいの力で止めておく。全力は出さず、余力を温存しておく。そんな意味だと私は感じた。100%を出さなくても、その場を上手くやり過ごせれば、毎日最低限のストレスで生きていける。頑張り過ぎないことって、実はとても大切だ。
話は変わるが、仕事ができない人には2種類あると思う。
①仕事ができない。というか、やる気がない。嫌々やっている。諦めている。こんな人。
②やる気はある。でも、仕事ができない。頑張らなきゃ、全部やらなきゃ。こんな人。
私は何方かと言えば後者である。
そして、②の人は言われることが多い台詞。
「〇〇さんは真面目だからなー。」
私は、これって仕事ができないとほぼほぼ同じ意味だと思う。
「真面目」という言葉は褒め言葉で使うこともある。仕事ができて、仕事が好きで、+αで仕事に関する勉強を進んで出来るような人には、褒め言葉の「真面目」が送られる。
しかし、仕事が出来ない人への「真面目」は真面目すぎる、容量が悪い、面白みがないという意味が含まれている。発言者にそんな悪意は無くとも、きっと心のどこかの気持ちがニュアンスとして現れてしまっている。
だいたい、仕事が出来ない人が「真面目」と言われる場合、状況として不適切なことが多いんじゃないかと思う。仕事が人より出来ないから、出来るようにするために、自分ができる工夫をやっているだけ。仕事ができないから、他の人より仕事に当てる時間が多くなる。ただ、必要に迫られてやっているだけなのだ。それを見た人は「まだ仕事やってるよ」「ほんと容量悪いな」「頑張ってるんだけどなー」などと感じて、言葉を発する。それを仕事のできる人のそれと同等の言葉で表すのは、少し違うんじゃないだろうか。
こういう、捻くれたことを私は常日頃考えている。
話を戻すが、こういう「真面目」と言われがちな私も含めた仕事できないさんには、「やり過ごそう」くらいが丁度いいのだ。私のようなタイプは、だいたい引き算が苦手。仕事ができる人がやっている事を全て加えていき、足し算ばかりして仕事に時間がかかる。
新しく部屋を引っ越すとき、あれもいるかも、これもきっと使うだろうと今すぐ必要な物だけではなく、使う頻度の少ないものまで最初から用意してしまうことはないだろうか。おしゃれな部屋に憧れるからと、片っ端からおしゃれな家具を揃えて置いてみたりだとか。でも後で気付く。結局使わなかったことに。あり過ぎて部屋が狭くなってしまったことに。
「やり過ごそう」という言葉には、無理して足し過ぎるなよという愛あるメッセージを感じてしまうのは私のただの妄想だろうか。
最初は必要そうなものを挙げるが、その中からとりあえず必要最低限だけ揃えておく。優先順位の低いものは引いてしまう。その日暮らせるものだけあれば、やり過ごせる。ものが少なく、見た目もすっきりして、おしゃれに憧れたごちゃごちゃした部屋なんかよりも、よっぽど清潔感があっておしゃれな部屋になる。
やり過ごそうという言葉に気づいて、心の荷物を減らそうと思った。自分で積んでしまった沢山の不要な責任感を。
その日を生きていければそれで十分。ほどほどに頑張って、あとは家でくつろぐ。こんな毎日を夢見て、今日も1日やり過ごそう。